日本で絶滅寸前な精神分析というものについてー精神分析はトラウマを思い出させるのか

精神分析は忘れられていたトラウマを「思い出させる」?

 精神分析というと、忘れ去っていた幼少期のトラウマを思い出させるというイメージを抱いている方も多いでしょう。
 
 実際、フロイトの治療報告には、患者さんが忘れられていた記憶を思い出すことで症状が軽減するという過程がみられます。特に、精神分析が理論化される前の試行錯誤の時代には、催眠などによって過去の記憶を思い出させることに治療の焦点が当てられていました。中には、前額法という、治療者が患者さんの額を押しながら「あなたは~について思い出す」と言って思い出させるという、やや強引な方法がとられていた時期もあったようです。
 
 しかし、フロイトの時代から精神分析の理論も発展しており、現在の治療においては、忘れ去られた記憶を思い出させることだけに焦点が当てられるわけではありません。
 
 

精神分析では無意識的なとらわれを扱う

 基本的に、精神分析では、無意識がその人の行動や心を制限している部分があり、それらの無意識がその人自身に統合されると*1行動や心の自由度があがると考えられています。
 
 ですので、フロイトの時代のように、忘れ去られていた(無意識にある)幼少期の記憶やトラウマが思い出されることで変化が起こるということも起こります。しかし、無意識に押しやられているものは過去の具体的な出来事だけではありません。さまざまな感情や考え、関係性のパターンなどもそこに含まれます。
 
 例えば、きょうだいのことを「すばらしい人」と思っているけれど無意識では強く憎んでいる。母親が嫌いでたまらないけれど無意識では認めてほしい気持ちがある。自分は何もできない人間だと思っているけれど心の底には「自分は誰よりも優れている」と考えている。もしくは、いつも自分を傷つける人に近寄ってしまう、権威のある人の言いなりになってしまうなど、自分でも気付かないうちに同じような対人関係のパターンを繰り返している。…こういったものも無意識の世界にちりばめられています。
 
 精神分析の治療過程では、上記のような、本人も認識していない無意識の感情や考え、関係性のパターンが、自由連想の中に、もしくは治療者との関係性の中にあらわれてきます。分析家はそれらがどのようなものかを見極め、患者さんがそれらを体験し、理解し、自分自身に統合していけるよう働きかけていくわけです。決して、何か幼少期のトラウマを「思い出させる」ことだけに焦点が当てられるのではありません。
 
 

過去だけではなく「今ここ」を見ていく精神分析

 もちろん、過去の出来事やトラウマも重要です。むしろ、そういった過去の何らかの出来事がきっかけで、上記に描いたような無意識的な感情や考え、関係性のパターンが作られることが多いと言えます。
 
 しかし、治療では、過去のどの出来事が原因なのかを探ることよりも、患者さんの自由連想や、治療者との関係性、そこに出現する考えや感情といった「今ここで」の出来事を丁寧に見ていくことで、患者さんを制限している無意識的なとらわれがどのようなものなのかを明らかにしていくことがより大事になってきます。
 
 精神分析は「過去」だけに目を向けるものではなく、過去の集積である「今現在」をつぶさに見て、これからのあなたがより自由になれることを目指す実践であると言えるでしょう。
 

 

psychoanalysis.hatenablog.com

 

psychoanalysis.hatenablog.com

 

フロイト症例論集2―ラットマンとウルフマン

フロイト症例論集2―ラットマンとウルフマン

 

 

*1:ここには意識化、言語化されなくても統合される場合があるということが含まれています

日本で絶滅寸前な精神分析というものについてー精神分析家について

精神分析家はどんな人たちなのか

 前回は精神分析のやり方について説明しました。では、この精神分析、実際にどんな人が実践しているのでしょうか。
 
 映画『チャーリーとチョコレート工場の秘密』では分析家のウンパ・ルンパが白衣を着ていましたが、医者が行うものなのでしょうか?精神分析理論を用いて哲学や思想を論じている学者も多くいますが、そういう人たちも精神分析を実際におこなっているのでしょうか?本で学べば誰でも出来るものなのでしょうか?
 

精神分析家になるには養成機関での訓練が必須

 実は、精神分析家は、精神分析家のための養成機関(インスティチュートと呼ばれます)において訓練を受けて資格を得た人がほとんどです。日本では、日本精神分析協会がその訓練と資格認定を担っており、これはフロイトが立ち上げた国際精神分析協会からインスティチュートとして認定された組織です。日本の場合、訓練を受けるには医師か大学院修士課程修了者で5年以上の臨床経験を積んでいることが条件の1つとなっています。
 
 訓練内容は、自身が精神分析を週4日以上受けること、週4日以上の精神分析の実践を行い、精神分析家にそのスーパーバイズを受けること、協会が主催するセミナーを受けることの3つに分けられます。訓練を受け始めてから精神分析家になるには、それなりの時間がかかることが多く、3~6年、長い場合は10年以上かかることも珍しくないようです。
 

日本にいる精神分析家の数

 こういった正規の訓練を経て資格を取得し、日本精神分析協会に登録されている精神分析家ですが、なんと日本では現在30数名しかいません。
 
 日本の全人口を考えるとほんの一握り。しかも、一人の患者さんが週に4回、5回来るとなると、一人の精神分析家が担当できる患者さんはせいぜい6,7人。さらに、資格をもっていても全員が精神分析の実践をしているわけではありません。ですので、日本で精神分析を受けている人自体も非常に少ないと言えます。
 
 こういうことをふまえると、欧米諸国と比べて、日本では精神分析が身近ではなく、詳しいことを知らない人が多いのも無理はないですね。ちなみに、アメリカやヨーロッパ、また南米の精神分析家の数は数千人という規模となっています。少し意外かもしれませんが、欧米諸国だけでなく南米でも精神分析は身近なもののようです。
 

日本に精神分析家が少ない理由

 何故こんなにも日本に精神分析家が少ないのでしょうか。
 
 その理由の1つに、アムステルダムショックと呼ばれるものがあります。実は、1993年には、日本における精神分析家の候補生(精神分析家を目指して訓練をうける人たち)は80名あまりいたのですが、翌年には彼らの人数は6名に減りました。
 
 何が起こったかというと、先ほど、精神分析家になる訓練では、週4日以上、精神分析を実践すること・精神分析を受けることが求められると書きましたが、実は日本はそれまで、その両方を「週1日」でOKとしていたのです。しかし、国際精神分析協会の年次大会がアムステルダムで行われた1993年、その事実が国際精神分析協会に伝わり、国際基準である週4日で行うようにと協会に言われてしまいました。この出来事がアムステルダムショックと呼ばれています。
 
 週1日でOKとされていたものが急に週4日以上となるのは大きな違いですね。かかるお金も時間も全く違ってきます。訓練の条件が急にこれほど大きく変わってしまい、候補生だった人たちの衝撃はいかほどだったことでしょうか。実際、新たな訓練条件では訓練を継続できない・しない候補生が大量に出現し、それ以降、精神分析家の数は大幅に減ったと言えます。
 
 外国から輸入されてきた文化を何でも自国流にしてしまう日本らしいエピソードと言えますが、この出来事は、日本の精神分析の現在に大きく影響をおよぼすこととなりました。
 

最も有名な日本の精神分析

 ちなみに、現在いる数少ない日本の精神分析家の中で、最も有名な方は北山修でしょう。そう、あの『戦争を知らない子供たち』『あの素晴らしい愛をもう一度』などの楽曲で60年代に一躍有名となったフォークバンド「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーであった人物です。
 
 精神科医である北山修は作詞家として数々のヒットを生み出すも、その後、自ら音楽業界を離れてイギリスに留学し、精神分析家となりました。華やかな世界を後にしたその決意は相当なものと思われますが、彼をそこまで動かした精神分析というものもまた、それだけの魅力をもつものなのだろうと思います。
 

もし精神分析を受けるのならば

 もし、あなたが精神分析を受けることに関心をもった場合は、治療者のプロフィールに「精神分析」と書いてあったとしても、日本精神分析協会、もしくは海外の訓練組織できちんとした訓練を受けているかどうかを確かめた方がよいでしょう。特にネットでは、本やセミナーで学んでだけで精神分析を行っていると記載している治療者もいるため注意が必要です。
 
 最もよい方法は、日本精神分析協会を通して治療者を探すことです。候補生による治療を通常よりも安い価格で受けられることもあるようです。
 

日本で絶滅寸前な精神分析というものについてー精神分析のやり方

日本に馴染みのない精神分析

 欧米のドラマや映画には、よく精神分析という言葉が出てきます。「週末に分析家に会ってくるわ」「あなた、精神分析を受けた方がいいんじゃないの」など、こんなセリフを聞いたことがある人も少なくないでしょう。
 
 例えば、少し古いですが、映画『チャーリーとチョコレート工場の秘密』では、チョコレート工場の主であるウォンカがソファに横たわり、精神分析家に扮したウンパ・ルンパから精神分析を受けるというシーンがありました。一種のジョークではありましたが、それがジョークとして成立する程度には精神分析が一般に浸透しているということかと思います。
 
 ところが、日本では精神分析という言葉は知っていても、それが実際にどういうものかを知っている人は少ないのではないのでしょうか。「カウチに寝て話をする」「小さいころのトラウマを思い出させる」「何でも性的なものに繋げる」などなど…曖昧で断片的なイメージしかない人がほとんとではないかと思います。
 
 それらのイメージは、当然、正しいものもあれば間違っているものもあります。いえ、もしかすると間違っているものの方が多いかもしれません。これから何回かに渡って、そんな誤解されやすい精神分析に関する「本当のところ」について書きたいと思います。
 

精神分析の正式なやり方

 まず、精神分析とはどんなものか、そのやり方について説明しましょう。
 
 精神分析では、基本的に、患者さんはカウチに横になり、分析家は患者さんの頭側に置かれた椅子に座ります。患者さんから分析家の姿は見えないわけですが、むしろそれが治療にとって大事であったりします。その理由はいくつかありますが、例えば、顔が見えると分析家も患者さんもお互い相手の表情を読み取ることに気が向いてしまって、後述する「自由連想」がうまく出来なくなってしまうことなどが挙げられます。
 
 そして、カウチに横たわった患者さんは「頭に思い浮かんだことを何でも」話していきます。これを自由連想といいます。この「何でも」というのがミソで、くだらないと思えるような些末な思いつきや、他人には聞かせられないようなこと、それまでの話題と全く関係ない飛躍したことなど、話すのを躊躇してしまうようなことも、思いついたことであれば全て話すということになっています。
 
 これは実際にやってみると完璧にこなすことは難しいのですが、他ならぬ患者さん自身の無意識をみていくためには、分析家が話題を誘導しないことが必須となります。
 ちなみにフロイト自由連想をこのように表現しています。
…ですから、頭に浮かんだことは何でもお話しください。たとえば、あなたが列車の窓際に座る旅行者だとして、車両の内部の人に窓から見える移り変わる景色を描写して聞かせるようにしてみてください。
フロイト「治療の開始について」
 何となくイメージがついたでしょうか。それにしても、フロイトがこういう説明の際に持ち出す比喩というのはとても上手だなと思います。
 
 最後に、面接の頻度ですが、なんと精神分析では週に4回以上に行うことが標準となっています*1。このあたりは、一般的な感覚からすると「そんなにやるの?」という感じがするのではないでしょうか。ふつう、習い事でも通院でも、多くても週1回ですよね。
 
 しかし、週に1回の面接だと、その1週間の出来事の報告やそれにまつわる気持ちを話しているだけであっという間に時間がきてしまいます。もちろん、具体的な問題の解決や気持ちの整理を目的とした普通のカウンセリングであれば週1回で十分なことが出来るのですが、人の無意識を扱っていく精神分析では、それ以上の頻度が必要となってきます。
 

精神分析という特殊な実践

 カウチに横たわる、自由連想をする、週に何回も通う…精神分析のやり方に関する主要な特徴を3つ挙げましたが、これらの点だけでも、精神分析は通常の会話や関係性とは異なる、特殊な実践であることが分かります。また、週に何回も通うとなると、それなりのお金と時間を費やす必要があることも分かるかと思います。つまり、精神分析とはある程度のお金と時間をかけて特殊な実践に取り組むものである、と言うことができるでしょう。
 
 これだけのコストをかけるものが、フロイトから100年以上経った今もなお、そこまで大きく姿を変えることはなく残っているわけです。それを考えると、精神分析がそのコストに見合う何らかを確かに提供してきたこと、また、それを求める人が どの時代にも一定数はいるということが推測されるでしょう。
 
 今この現代においても、精神分析が提供するものを潜在的に求めつつも未だ精神分析と出会っていない人というのが確かに存在していると思います。その方たちが精神分析と出会える機会が少しでも増えることを願ってやみません。
 
 次回は精神分析家というものについて書きたいと思います。 

 

psychoanalysis.hatenablog.com

 

psychoanalysis.hatenablog.com

 

フロイト技法論集

フロイト技法論集

 

 

*1:国際精神分析協会の基準による

子ども時代を生き抜く

 子ども時代は厳しい。よく「社会は厳しい」「世間は厳しい」と言うけれど、それを言うなら子ども時代だって相当厳しいものでしょう。
 
 子どもというのは社会的制約がなく自由なように思えますが、実際はまったく自由ではありません。
 
 親の都合に左右され、その地域の教育や文化環境に左右され、そして学校という名の元集められた有象無象の学友たちに左右されます。心身ともに未熟で、自分で使えるお金もなく、それゆえ当然ながら自分で居住地を変えることも、文化や教育を選ぶことも、付き合う友人を選ぶことも出来ません(もしくは非常に限られた選択肢しか与えられない)。
 
 子ども時代に不自由さに直面した人の中で、社会人になって、自分の裁量でお金を使えたり、仕事や環境を選べたりすることに非常に自由を感じたという人は少なくないようです。たしかに、少しでも「何かを選択できる」という自由があるということはすばらしいものでしょう。認知症研究でもストレス研究でも「自分自身や自分にまつわることについて選択できるか否か」が生活の質を向上させストレスを減らすことは証明されています。
 
 そして何よりも子ども時代というのは、乳幼児の甘やかな時代からの脱却の時代でもあります。
 
 乳幼児期は泣けば乳が与えられ、むずがればあやされ、そして歩けば褒められ、自分が笑えば誰もが喜んでくれるといった魔術的万能感に満ちた時代ですが、その万能感は、成長していく過程の中で、親や先生、友だち、勉強、スポーツ、世間体、常識…といった現実たちによって、時に急激に、時にゆっくりと、壊されていきます。現実を知り、自分の能力を知り、自分の限界を知っていく中で、理想や願望、欲望たちは現実的な、身の丈にあったものに変えさせられていくのです。
 
 小さいうちに注がれていた[親の]情愛は減退し、教育が差し出す要求は増大し、自分に対する言葉遣いは厳格なものとなり、場合によっては罰が与えられる、こうしたことによってついに、自分に降りかかっている侮蔑の全貌が剥き出しになっていたのである。
フロイト「快原理の彼岸」
 
 しかし同時に、そういった不自由な運命のもと、それでも懸命に生きていく子どもたちは美しいと、そう感じます。
 
 彼らは小さなものに喜びを見つけ、わずかな楽しみに耽溺します。大人には理解できないような対象に夢中になり、熱狂し、それらを大切に大切にします。拾った小石、大好きなカード、日曜のアニメ、おもちゃの腕輪。それらはきっと、彼らが辛く厳しい子ども時代を生き抜くための心的な支えなのでしょう。豊かな想像力によって、彼らはそれらから現実を乗り越えるだけの力を得るのでしょう。小さな小石は錬金術的な魔法の石であり、きらびやかなカードは最強の力を持ち、アニメの登場人物は自分の化身となる…その想像、その情熱、その喜び。それらを手に、不条理と不自由に満ちた世界を生き抜こうとする、子どもたちは美しい。
 
 そして願わくば、わたしたち大人は、彼らのその果敢な挑戦を見守り、その過程が楽なものとなるよう少しでも手助けが出来る存在でありたいものです。
 

私たちの痛みはオーダーメイドでしか変わらない(精神分析のススメ)

魔法のような解決策

 本屋の自己啓発のコーナーにいくと、女性向けからビジネスマン向け、高齢者向けまで、ありとあらゆる「幸せのための」書籍たちが並んでいます。「幸運の法則」「宇宙にお願いして人生を変える」「人生と仕事を変える50のルール」「運を呼び込む掃除力」などなど。
 
 それらを見ていると、世の中には「これさえやれば幸せになりますよ」というメッセージになにと溢れていることなのだろう、と圧倒される気分です。この世の不平等、不条理はこんなにも明らかで、わたしたちはもう嫌というほど現実のシビアさに晒されているに、それでも溢れかえる万能的で魔法的な幸せの方策たち。いや、こんな世の中だからこそ一層、魔法のような解決策が求められているのでしょう。
 

精神分析は苦悩をどうするのか 

 精神分析の生みの親であるフロイトは、患者から”先生は私の生活環境や境遇を変えることはできないのに、どんなふうにして私を助けるつもりなのか?”と聞かれて、以下のように答えています。
 
「確かにあなたの苦しみを取り除くには私の力を借りるより、境遇を変えた方が簡単でしょう。それは疑いありません。しかし、あなたはヒステリーのせいで痛ましい状態にありますが、それをありきたりの不幸な状態に変えるだけでも、多くのことが得られます。そのことはあなたも納得されるようになるでしょう。そして神経系を快復させれば、そんなありきたりの不幸に対して、あなたはもっと力強く立ち向かえるようになるのです」 『ヒステリー研究』
 
 わたしがフロイトを好きなのはこういうところです。精神分析は「痛ましい状態」を変えることは出来ても、その後の人生における「ありきたりの不幸」は続くということを明確に述べています。
 
 「あなたを幸せにします」でも、「あなたの苦痛を取り除きます」でもない、ひどく現実的でシビアな言葉。しかし、「これさえやれば幸せになりますよ」と非現実的な魔法を囁くのではなく、この世は不条理に満ちており苦悩がなくなることはないという現実から目を逸らさずに、「それでもあなたがその苦しみを抱えながらも何とか生きていけるように手伝いましょう」と宣言する態度は、真摯で誠実といえるのではないでしょうか。フロイトの、現実のシビアさに真っ向から取り組む態度、その中で自分ができる最大限のこと(自分の限界)に慎重である態度が如実にあらわれている部分です。
 

もしもあなたが求めるならば

 自分の苦悩というのはアイデンティティにもなりえます*1。最初にあげたような数々の自己啓発書がうたう「これさえやればあなたは幸せになりますよ」という言葉に胡散臭さを感じる人も決して少なくないと思いますが、そういった人の中には、「多くの人がやってきたようなありふれた手段なんかで、私の苦悩がなくなるものか」という思いを抱いている方も少なくないのではないでしょうか。
 
 わたしはその思いは間違っていないと思います。生まれ持った特性や生い立ち、さまざまな傷つきから作り上げられたあなたのその苦悩は、あなた固有のもの、あなた独自のものです。そうやって作り上げられ、長い時を共にしたその苦悩はもはやアイデンティティの1部をなしており、そういった苦悩が「万人に通ずるやり方」で、魔法のように簡単になくせるわけがない。オーダーメイドに作られたものは、オーダーメイドなやり方でしか変えられない*2。その感覚は決して間違っていません。
 
 そういった個人の固有の苦悩に対して、やはり一人の固有の人間である治療者がおこなうオーダーメイドの治療法の1つが精神分析(的心理療法)だと私は考えています。分かりやすい万能的な法則ではなく、固有の苦悩を時間をかけて見つめ、考え、触れ、言葉にするといった、世界にたった1つの道筋をたどる治療法、それが精神分析(的心理療法)です。
 
 精神分析は時代遅れだといわれ、心理療法の世界においても精神分析心理療法の実践も片隅に追いやられてきている昨今ですが、万能的な魔法に「ノー」を言い、自身の痛みに自らが真っ向から取り組むことを求める人がいる限り、精神分析という実践が絶えることは決してないでしょう。日々の臨床においても、精神分析心理療法を継続されるクライエントの方が手ごたえを感じているのは、きっとこの部分なのだろうと感じます。
 

*1:それは別に良いことでも悪いことでもないものです。

*2:オーダーメイドと書きましたが、考えてみれば別に誰も苦悩をオーダーしたわけではないのだから、ちょっと語弊があるかもしれないですね。

光るもの、あれは

 世界は素晴らしい、人々は優しい、と多くの人が言います。それは確かに真実でしょう。

 しかし世界の素晴らしさ、人々の優しさを知ってもなお暗い方へ暗い方へと進む心、というものがあるのもまた真実だと思います。

 人は優しいと知っていても、この世は可能性に満ちていると分かっていても、自分の怒りや妬み、劣等感が押さえきれないほどに増幅し、その黒い雲におおい隠され、相手がまったく信じられなくなることがあるでしょう。
 未来は白紙で誰にも分からないものであり、だからこそ嘆きや絶望が永遠に続く確証もないのだと頭では分かっていても、自分の先行きには気が遠くなるほどの孤独と淋しさが待っているとしか思えないこともあるでしょう。
 絶え間ない自己嫌悪。もしくは救いようのない隔絶感。底なしの空虚感。それらのパワーは圧倒的で、時に心がわずかに軽くなることはあっても、すぐ再び抗いようのない生き辛さに満たされ疲れ果ててしまい、結局あきらめるしかないのだと一人固い決意をすることもあるでしょう。

 それでも私たちが生きているのは何故でしょう。暗い道を歩きながらも、何とかやっていこうともがいているのは何故でしょう。


 それはきっと、心のどこかに世界の美しさについてのわずかな記憶があるからかもしれない、と思います。光、もしくは祈り。そういう、ささやかで力のない、今にも消え入りそうな美しさ。

 それはもしかすると、あの日の笑顔かもしれないし、誰かのなんてことのない一言かもしれない。エンドレスで聞き続けた音楽かもしれないし、ボロボロになるまで読んだ書物の中の一節かもしれない。何か、世界の美しさを象徴するかすかな記憶。それらは意識の中に、無意識の中に、ひっそりと積み重なり、私たちが暗い道を歩いているときにふと遠くで静かに光るのではないでしょうか。光、もしくは祈り。か細く非力なクモの糸。それは暗闇にいる私たちの目に直接は入らなくとも心のどこかに瞬いており、その存在をわずかにキャッチした私たちは再びフラフラと立ち上がり、満身創痍で何とか生きていくのではないでしょうか。


 ”心理療法は、治療者がクライエントを治すのではなく、クライエントが自身の自己治癒力によって回復するのだ”という言説は、この業界にいると耳にタコができるほど聞くものです。これは、すべての人に内在する自己治癒力への敬意と尊重を思い出させるとともに、治療者の救済者願望や万能感をいさめる言葉ですが、臨床をしていると、確かにそうかもしれない、と思うときがあります。

 治療者が行うのは、クライエントの孤独や自己嫌悪、絶望という情緒の嵐の中で、か細く非力なクモの糸となっている僅かな光や祈りを見つけ、それに触れ続けることなのだと思います。今はその光との繋がりが切れてしまっているクライエント自身が、それに気づき、自ら触れることが出来るようになるまで、治療者ができることの1つは暗闇の中でその切実な希望から目をそらさずにいることなのかもしれません。

体験的に「知る」ことで私たちは変わっていく

 心理療法を受けている患者さんが、自分の抱えている生き辛さから少し抜け出たとき、つまりちょっとしたターニングポイントを抜け出たとき、「なんで今までこんなことに気づかなかったのだろう」と言うことが度々あります。
 
 この「こんなこと」というのは例えば、「親の期待通りでなく、自由に生きていいんだ」ということであったり、「人に合わせて無理をしないで自分優先にしてよかったのか」もしくは「弱みを見せて人に頼ってもいいのか」ということだったりします。
 
 こういったことは、たぶん誰でもどこかで見聞きしたことがある言葉でしょう。実際、「なんで今まで気づかなかったのだろう」と言う患者さんたちも、別にその「フレーズ」だけなら何度も聞いたことがあった、何度も見たことがあった、と言います。例えば自己啓発の本の中、新聞の人生相談のコラムの中、もしくは誰かに相談したときのアドバイスの中で。確かにその「フレーズ」を見聞きしていたと言います。
 
 でも、皆さん口を揃えて言うのは、それを実感してはいなかった、ということです。つまり、その「フレーズ」と自分の体験が繋がっていなかった、ということでしょう。もしくは、その「フレーズ」が指し示す内容を、頭では理解していても、体験として実感していなかった、とも言えるかもしれません。皆さん、こんな何度も見聞きしていたようなことに「なぜ気づかなかったのだろう」と驚かれ、そして以前よりも自由で新しい生き方に少しずつ踏み出していきます。その「フレーズ」の内容を実際に生きていくこととなります。
 
 こういう現象に出会うと、一体「何かを知る」ということはどういうことなのだろうとつくづく考えます。わたしたちが「何かを知る」というのはどういうことなのでしょう。わたしたちは、何をもって、そのことを「知った」ということが出来るのでしょう。
 
 患者さんたちが上記のようなターニングポイントを迎える以前は、その言葉を「聞いたことがある」状態ではあっても、「知って」はいなかったと言うことが出来るでしょう。何かを「知る」ということは、その言葉やそれが指し示す内容を理解するということだけではなく、自分自身が一変するということ、自分自身が組み替えられるという体験を含むことなのだと思います。そしてそれは非常に強い力を持ち、わたしたちは1回「知った」ら、もうそれ以前の自分には戻れないほどのものなのでしょう。
 
 「知る」ことについては精神分析においてさまざまに論じられており、「知る」という体験や「知りたい」という情動がどのように生まれるのかなどについての魅力的な理論があるのですが、それはまたの機会に。