「あなたには分からない」という言葉の背後にある絶望と希望

 先日、「当事者マウンティング」という言葉について書きました。
 
 そこで出てきた「あなたには分からない」という言葉についてもう少し書いてみたいと思います。
 

「先生には分からない」

 「あなたには分からない」という言葉は、実は、心理療法ではよく耳にする言葉です。多くの患者さんが、自分の苦しみについて「他の人には分からない」「先生には分からない」と口にします。
 
 この言葉は確かに強いものです。先の記事にもあったように、これを言われた側としては、対話を封殺され、関わりを否定されたように感じられ、動揺してしまうことも多いかもしれません。
 
 しかし、この言葉の背後にはさまざまな感情があるように思います。恐らく、そこには「分かるはずがない」という強い絶望と、「でも本当はわかってほしい」というわずかな(でも切実な)希望の両方があるでしょう。また、もしかしたら、これまで、誰も自分の苦悩を理解してくれなかったという体験から、「簡単に分かってたまるか」という強い怒りや、「分かってなんてほしくない」といった拒絶も含まれているのかもしれません。
 

他者の言葉を理解するには

 他者の言葉を理解しようとするとき、その言葉が伝える表面的な内容だけを追っていては、その本当のところは理解できません。その言葉が出てきた背景にあるもの、その人の歴史、また、そこで体験されたであろう感情や思考といったものを想像して初めて、相手が伝えようとしているものに近づくことが出来るのだと思います。
 
 心理療法で「先生には分からない」と患者さんに言われたとき、臨床家が最初にすることは、その言葉が出てきた背後にある絶望に、怒りや拒絶に、切実な希望に思いをはせることです。そして、患者さんが今この時に、私たちにその言葉を言うということが何を意味しているのかを考えます。それはきっと一人一人、異なるでしょう。一人一人の歴史が異なるように。
 
 心理療法と違って、普段の会話では、一つ一つの発言の背後にあるものを丁寧に見ていくことは出来ません。それでも、何か動揺してしまうようなことを言われたとき、もしくは自分が言ってしまったとき、その背後にある感情を見つけて理解していくことは、相手や自分自身を深く知ることに繋がり、ひいては相手や自分との関係性をよくすることになっていくのだと思います。
 

「当事者マウンティング」をされた時に私たちにできることー背後にある心理を考えるー

「当事者マウンティング」と言う言葉

 「当事者マウンティング」に関するこちらの記事が一部で話題になっているようです。

 

あなたもきっと経験がある「当事者マウンティング」の暴力性と誘惑(磯野 真穂) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

 

 当事者マウンティングとはこの記事を書かれた方の造語であり、以下のように説明されています。

自分が持っていないものを理由に「わかっていない」と言われると黙るしかない。相手がわかって、自分がわからないことの根拠は、自分には持ちえないものの中にあるのだ。返す言葉は無くなってしまう。

 

当事者の言葉は重要である。経験していなければ、その場にいなければ知りえないことはたくさんある。世界は当事者の言葉が聞かれなかったゆえに起こった悲しい出来事であふれている。

 

しかし当事者が当事者であることを根拠に「わかる」を主張し、当事者でないことを理由に「わからない」を突き付けるとき、それはマウンティングになる。

 

ここではそれを「当事者マウンティング」と呼ぼう。

 記事では例として、「子どものあなたには分からない」「子育てをしたことのない人に、子どものことは分からない」などがあげられており、最後に、当事者マウンティングは相手の言葉を封じ込め、対話の扉を閉ざすリスクがあることが指摘されています。

 確かに、この例のようなセリフはよく聞きます。また、この言葉は相手を排除し拒絶するニュアンスがあるので、言われると何も言えなくなってしまうということもよくあるでしょう。そういった現象をあぶりだすものとして、「当事者マウンティング」というこの言葉は秀逸のように思います。

 

「当事者マウンティング」という言葉の危険性

 しかし、多くの人が指摘しているように、この「当事者マウンティング」という言葉には、弱者やマイノリティ、被差別者がやっとの思いであげた声を封殺するために使われかねない危険性があるように思います。

 例えば、こちらのコラムにはその危険性について詳しく書かれています。

 

www.hafutalk.com

 

 元の記事では、そういったリスクを避けるためか、「当事者マウンティング」の例は被差別的なニュアンスのない「ある物事の当事者」といった文脈となっていますが、一般的に「当事者」といってまず連想するのは、いわゆる弱者やマイノリティ層ではないでしょうか。そういった被差別者の声に対して、「当事者マウンティング」という言葉が軽々しく使われ、批判や揶揄の対象とされてしまわないかが懸念されます。

 

「当事者マウンティング」をする心理

 そもそも、「当事者でないあなたには分からない」という言葉はどういう時に発せられるのでしょうか。

 この言葉は、当事者が、無遠慮でぶしつけな無理解にさらされた時に出てくるもののように思います。

 1人の人間の体験に対する想像力も敬意もなく、「きっと~なのだろう」「~に違いない」と決めつけられたとき、それに傷つき、反発し、自分の心を守るため、当事者は「あなたには分からない」と言うのではないでしょうか。当事者は、当事者であることを根拠に「自分だけがわかっている」ことを主張したいのではなく、ただ、「あなたは軽々しく決めつけたけど、私にはあなたの想像もおよばないような痛みや苦しみの体験があるのだ」という悲痛な訴えをしているように思えます。

 記事の著者も、人から「研究者って楽そうでいいよね」と「上から目線」で言われた時に「当事者マウンティング」をしそうになったと、やはり最初に相手から「上から目線」で無理解を突き付けられたことを描写しています。

 記事には「当事者マウンティングの最大の問題は、対話の扉を閉ざし、知るチャンスを封じることにある」とありました。しかし、 最初に「対話の扉」を閉ざしたのは、もしかしたら、最初に無理解をつきつけた「当事者マウンティング」をされた側なのかもしれません。

 

「当事者マウンティング」をされた側の心理

 記事には「当事者でないあなたには分からない」と言われると、言われた側は「黙るしかない」と書かれていますが、そうなってしまうのは何故でしょう。

 確かにこれは強い拒絶の言葉であり、人をひるませる言葉です。しかし同時に真実でもあります。実際、当事者として経験しないと分からないことはあるわけで、「あなたには分からない」は至極当たり前のことでもあります。

 それでも、「あなたには分からない」と言われて、「はい、分からないです。でも分かりたいと思うのです。教えてください」と素直に言えず、黙ってしまうのはどうしてなのでしょう。

 マウンティングという言葉はそもそも「相手を貶め、自分が優位に立とうとすること」を意味します。

 「あなたには分からない」と言われて「マウンティングをされた」=貶められたと感じるということは、その背後に、「わかる」こと=優位である、「わからないこと」=劣っている、という価値観が前提としてあるのだと思われます。そして、自分は「わかっている(優位である)」はずなのに、「わかっていない」人として貶められたという怒りがあるのではないでしょうか。だからこそ、「あなたには分からない」という言葉を前に黙ってしまうのかもしれません。

 

「当事者マウンティング」をされた時にできること

 私たちが「当事者マウンティング」をされた時には、対話を封殺されたと思い黙るのではなく、それを発した相手の体験した痛みや苦しみを想像し、自身が最初に無理解をつきつけたのではないかと顧みることが必要ではないかと思います。また、「わかる」「わからない」という優劣から抜け出すことも大事でしょう。そうすることが出来て初めて、本当の対話の扉を再び叩くことが出来るのではないでしょうか。

 

psychoanalysis.hatenablog.com

 

「ありのままに世界を見すぎる」ゆえの苦悩(防衛機制が弱いということ)

 患者さんの話を聞いていると、時折、その苦悩の背景に「あまりにありのままの世界を見すぎている」ことがあるように思える時があります。

 

予測不可能な世界

 例えば、患者さんの中には、人からどう思われるか分からないことが不安で、人とうまく関われない人がいます。大災害にあうことや、重い病や重大な事故事件を恐れるあまり、行動が制限されてしまう人もいます。
 
 これらはどれも、予測することが不可能な事態に対する不安や恐怖が根本にあるといえます。
 
 実際、私たちは、他人が何を考えているかを本当のところは分からないし、自分がいつ大災害や病、事故事件に出会うかも分かりません。もしかしたら、信じている人に嫌われているのかもしれないし、明日にでも大災害や病、事故事件に遭遇するかもしれない…。厳密に考えれば、その可能性は決してゼロではありません。ありのままに世界をみれば、世界はとても不安定で不条理に満ちています。
 

防衛機制で心を守る

 しかし、私たちは、そういった可能性がゼロではないということを、あまり考えないようにして生きています。人と出会うたびに、「この人は何を考えているのか」と疑心暗鬼になっては、人と出会うことが苦痛になってしまいます。また、どこかに出かけるたびに事故事件に巻き込まれないか心配していては、おちおち出かけられません。
 
 なので、私たちは、そういった「厳密に考えればあり得ることだけれど、普段はそれを忘れておいた方がいいこと」については、どこかぼやかして、あまり見ないようにして生きているのです。
 
 この、見ないようにしていることを精神分析の理論では「防衛機制」と呼びます。防衛機制とは、人が苦痛や葛藤に出会った時、それらから心を守るために働くシステムです。
 
 防衛機制にはいろいろな種類があります。代表的なものをいくつかあげるとすれば、苦痛な体験や感情を無意識におしこめて意識にのぼらないようにする「抑圧」、本心とは正反対の言動をとる「反動形成」、何かに向けた感情や欲求を別のものに置き換える「置き換え」などがあります。
 

防衛機制が弱いゆえの苦悩

 この防衛機制はもともとは人の心を守るために必要なシステムです。しかし、これがあまりに強く働きすぎたり、逆に弱くて十分に働かないと、さまざまな苦痛が生じることになります。
 
 そして「ありのままに世界を見すぎる」ために苦悩している人というのは、後者のケース、つまり防衛機制が弱い方であると言えます。
 
 彼らは、他の人々が無意識に誤魔化して見ないようにしている、世界のリアルな姿、不条理で残酷で不安に満ちた姿を、あまりにもそのままに直視しているのでしょう。真実を見すぎている、あまりに真摯に生き過ぎている、と言うことが出来るかもしれません。彼らはよく、人から「考えすぎだ」「気の持ちようだ」などと一蹴されることがあるようですが、果たして、世界のリアルな姿を見ているのはどちらなのでしょう。
 

ありのままの世界を見つめる心に覆いを作ること

 しかし、やはり守りが薄いまま、この世界を生きていくのはとても苦しいことです。
 
 精神分析家である北山修は著書「覆いをとること・つくること―〈わたし〉の治療報告と「その後」」で、覆いをとっていわゆる深層心理を明るみに出すオーソドックスな精神分析心理療法ではなく、心の「覆いをつくる」心理療法の重要性について語っています。
 
本書で示す対象者の防衛はもろくて、心の中身が露呈しており、中身の開示の程度はいわゆるノーマルな「普通の人々」とは比べ物にならない。ここに登場するケースは、症例Fを除いて、「普通」ではなく、私が初めて会った頃は特に、その身を守る適応的な防衛というものが破綻した人たちだった。だからこそ、「覆いをとる」というより「覆いをつくる」治療が求められたのである。今から考えても、彼らは「普通の人」たちよりも、あるいは、私なんかよりも、嘘のつけないずっと正直な人たちであった。
 
 この著作に出てくるケースは内服治療が必要となるような方が多いですが、そういった治療を必要としない方においても、こういった心の覆いが必要となる場合があるように思います。自身の苦悩が、覆いが強すぎることによるのか、覆いが脆すぎることによるのか、という視点は、その対処を考えるうえでも大事になってくると思います。

 

 

「どうすればいいか分からない」時に私たちの心に生じていること

「分からない」は本当に「分からない」のか

 何かに悩んでいるとき、「どうすればいいか分からない」と堂々巡りに考えてしまうことがあるかと思います。例えば、恋人にふられてしまって「どうすればいいか分からない」、仕事がうまくいかず「どうすればいいか分からない」、試験に受かる気がしなくて「どうすればいいか分からない」…。寝ても覚めても「どうすればいいのか分からない」とグルグル考えてしまいます。
 
 しかし、そういった時、私たちは本当に「分からない」のでしょうか。

 

何かを避けるために「分からない」堂々巡りが生じる

 精神分析学会の機関紙である『精神分析研究』の51巻に、学会で行われた「治療抵抗」についてのシンポジウムでの講演が収録されており、次のようなことが書かれていました*1
 
心理療法に来ている患者が「分からない」と堂々巡りするとき、それは「何とかしないといけないもの」があるのではない。それは、患者の心の中に何らかの感情が沸いてきているが、それを感じることを避けようとしている時であることが多い。患者が自分の感情から目をそらし、内面をみるモードでなくなっているとき、「分からない」と堂々巡りになるのだろう。
 
 専門用語をはぶいて分かりやすく要約したので少し意訳になりますが、上記のような内容でした*2
 
 これは、治療中に生じる出来事について書かれたものですが、私たちが普段の生活の中で「どうすればいいか分からない」と堂々巡りしてしまうときのヒントにもなるかと思います。
 
 つまり、「どうすればいいか分からない」という堂々巡りは、何か目をそらしたい感情や現実を避けるためにグルグルと繰り返されているのかもしれない、ということです。
 

本当は私たちはどうすればいいかは「分かって」いる

 感情や現実のそのままを十全に体験することは、実は意外と難しかったりします。特に、拒否したい感情や現実であればなおさらです。そして、その際に、言葉というものが巧妙に使われます。言葉を巡らせることで、さも考えているように見せながら、実は本当の意味では考えておらず、ただただ心が気持ちや体験に対して回避的になっているということがよく起こります。
 
 恋人にふられて「どうすればいいか分からない」とき、心は、喪失の悲しみと絶望や恋人の心離れという現実があまりに辛いため、それらを体験したくない!と悲鳴をあげているのかもしれません。
 仕事がうまくいかず「どうすればいいか分からない」とき、自己愛の傷つきや恥ずかしさ、理想とは異なる現実が苦しくて、そこを見ないように必死なのかもしれません。
 
 本当は、どうすればいいのか、何を諦めなければいけないのか、分かってはいるのでしょう。そしてそれは大抵の場合、苦しくて情けなく、地味で平凡な選択肢です。でも、それを分かりたくなくて、私たちは「分からない」と繰り返しているのかもしれません。穴の中に入らないと落としたものを拾えないと無意識では知りながら、穴の周りをグルグルとまわりながら「分からない」と繰り返す…そんな事態に陥っているように思えます。
 
 そのとき、私たちが本当にすべきことは、その穴の中に入っていくことなのでしょう。暗い穴に入り、味わいたくない感情や見たくない現実に向き合い、それをしっかりと体験する。それを通してしか、次の行動には移れないのかもしれません。また、その作業があまりに辛い時、人は心理療法を求めるのではないかと思います。
 

*1:精神科医である道岡義敬先生による「抵抗概念をどう生かすか」という論考です

*2:長い論考のごく一部をまとめたものです。また、ここでは、治療における抵抗がテーマであるため、治療者に対するネガティヴな感情に焦点が当てられていました。

精神分析について知りたいあなたにおすすめする本6選

 精神分析について何回かに渡って説明をしてきました。
 

 
 今回は精神分析について詳しく知りたい方にオススメの本をあげたいと思います。

 

精神分析の肌触りを知る3冊

 理論を知る前に、まず精神分析が「どんな感じ」なのかを知るための3冊をあげたいと思います。精神分析の肌触りとでも言えばよいでしょうか。それは各分析家によって微妙に違う部分もありますが、どこか共通する部分があるのも事実です。この肌触りを知ることは、精神分析の理論についての理解の近道にもなると思います。
 
 
「落語の国の精神分析藤山直樹
落語の国の精神分析

落語の国の精神分析

 

  数少ない日本の精神分析家の1人であり、また年に一度落語会をやるほどの熱心な落語ファンである著者が、落語のネタとからめて精神分析について語った(もしくは精神分析にからめて落語について語った)エッセイ集。精神分析の実践を真摯に続けている分析家にしか描けない「精神分析の本質」に触れることが出来る一冊です。落語、精神分析双方に通じる、人間の性、業を、情緒豊かな文章で描いており、落語を知らない人が読んでも読み物として十分に面白いです。

 
 
精神分析たとえ話:タヴィストック・メモワール」飛谷渉
精神分析たとえ話: タヴィストック・メモワール

精神分析たとえ話: タヴィストック・メモワール

 

 イギリスで精神分析を学び体験した著者による、精神分析を受けることについての「指南書」。言葉では説明しがたい精神分析の世界について、著者のイギリスでの体験やさまざまなたとえ話を通して迫っていきます。ところどころ専門用語が説明なく出てくるので、基本的な知識がある方が理解しやすいところもありますが、臨床家だけでなく一般の読者も一応想定しているとのことで、文章自体は読みやすいです。著者のユーモアや深い教養を楽しんでいるうちに、精神分析体験の一端について知ることのできる1冊となっています。

 
 

「最後の授業 心をみる人たちへ」北山修

最後の授業――心をみる人たちへ

最後の授業――心をみる人たちへ

 

  最も著名な日本の精神分析家である北山修九州大学を退官する際の最後の授業を書籍化したものです。<見るなの禁止><自虐的世話係>などの概念を生み出してきた、神話や昔話を通してみる日本人の心についての論考が読めます。また、元ミュージシャン・作詞家である北山ならではの、マス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションの対比やフロイトの芸術への葛藤についても書かれています。冗談も交えながらの軽妙な語り口で読みやすいですが、端々に、特異な経歴を経てきた葛藤や臨床家としての矜持が見え隠れし、著者自身の人物像の深みと魅力も溢れている1冊です。

 
 

精神分析の理論を知る3冊

 精神分析の理論を知るために、比較的とっつきやすく、かつ内容も信頼できるものを選んでみました。
 
「面白いほどよくわかる フロイト精神分析立木康介

  こういった「よくわかる」系の本には、理論や概念を分かりやすくしようとする余り、正確性が乏しくなってしまうものが多いですが、この本は比較的、正確性と分かりやすさが両立しています。正確性が保たれているのは、監修である立木康介が、日本を代表する(思想としての)精神分析学研究者の1人であることが大きいかと思われます。精神分析以前の精神医学、フロイトの人生、フロイト以後の分析家と理論について、ざっと知りたいという方におすすめ。日本の精神分析の現状や問題点についても正しく(少し辛らつに)書かれています。

 
 
「集中講義・精神分析藤山直樹
集中講義・精神分析?─精神分析とは何か フロイトの仕事

集中講義・精神分析?─精神分析とは何か フロイトの仕事

 

 

集中講義・精神分析 下 フロイト以後

集中講義・精神分析 下 フロイト以後

 

  「落語の国の精神分析」の著者による精神分析についての講義をまとめたものです。学部向けの講義であるため、精神分析を全く知らない人でも理解しやすいものとなっていますが、フロイトの生涯や理論から、その後の精神分析の発展、日本の精神分析の実情、精神分析という実践や精神分析家という生き方の実際など、その内容は大変充実しています。話し言葉で書かれており読みやすく、また、何といっても理論がとても生き生きと描かれています。2冊に分かれておりボリュームがありますが、お堅い教科書を読む前に、ぜひ目を通して欲しい1冊です。

 
 
「生い立ちと業績から学ぶ精神分析入門:22人のフロイトの後継者たち」乾吉佑
生い立ちと業績から学ぶ精神分析入門:22人のフロイトの後継者たち

生い立ちと業績から学ぶ精神分析入門:22人のフロイトの後継者たち

 

   フロイト以後の精神分析家の理論を、その分析家の生い立ちと共に解説する1冊。理論だけでなく、生い立ちにもクローズアップしたという点が新鮮です。フロイトが父の死をきっかけにエディプスコンプレックスという概念を作り上げたように、精神分析家の理論はその人生や性格と密接に絡んでいることが多いです。生い立ちを知ることで分析家が身近に感じられると同時に、各理論や概念はまさに分析家の人生を賭して産み出されたものなのだという感慨を覚えます。

 コンパクト にまとめてあり読みやすいですが、内容は精神分析の基本的な知識がないと少し分かり辛いところがあるかもしれません。

  
 

フロイトは最後に読もう

 精神分析創始者であるフロイトの本が1つもないじゃないか、と思う人もいるかと思いますが、最初からフロイトの本を読むことはあまりお勧めしません。というのも、フロイトの著作は、時代背景やその後の精神分析理論の発展などを知らないと、理解しづらかったり、誤って理解してしまうことも多く、「フロイト読んだけど小難しいだけでつまらなかったわ」となってしまいがちだからです。
 
 ただ、フロイトの著作自体は今読んでも十分に面白いですので、ある程度、精神分析の理論や歴史を知った後で、副読本などを片手に読んでみることをおすすめします。
 

育児が辛いときに思い出してほしい、精神分析家ウィニコットの言葉「ほど良い母親 Good enough mother」

 「完璧な母親」という理想に追いつめられる

 育児には幸せや楽しみも多いものの、身体的、精神的な負荷も多く、追い詰められてしまう人も多いのが現状です。
 
  もともと育児には正解がないため、常に、自分の育児が正しいのかどうかという不安がつきまといます。何らかの「正解」や「指標」が欲しいという一心で、本やネットからの情報や他の人の育児話から、目標とすべき「理想的な育児」や「完璧な母親」を思い描きますが、今度はその通り出来ないことで自分を責めるという悪循環に陥ってしまいます。特に、まじめで熱心な母親ほど、この「完璧な母親」になれないことで追いつめられてしまうことが多いように思います。
 

精神分析ウィニコットの言葉「ほど良い母親」

 子どもの精神療法をおこない、乳幼児の心理に関するユニークな概念を数多く生み出したイギリスの精神分析家・小児科医のウィニコットの言葉に「ほど良い母親(Good enough mother)」というものがあります。
 
 これは、いわゆる普通の、"ほどほどに良い"母親のことです。ウィニコットは、完璧な母親ではなく、この「ほど良い母親」による"ほどほどの育児"こそが乳児にとって大事であると考えました。「ほど良い母親」は、赤ちゃんの全てのニード全てに完璧に応えることは出来ません。時に見当違いのことをし、時に対応が遅くなり、時に応えられないこともあります。しかし、この不完全さこそ、赤ちゃんが自分の外側にある世界に気づいていくために必要なのです。
 

「ほど良い母親」が赤ちゃんにとって大事な理由

 ウィニコットは、生まれたばかりの赤ちゃんは、外側の世界や母親という存在、また自分自身の存在にさえも気づいていないと考えました。赤ちゃんにあるのはただ、空腹や睡眠などのニードだけです。それらは母親によって満たされますが、赤ちゃんは自分の外側の存在=母親がニードを満たしていることには気づかず、自分が魔術的にそれを生み出しているというような「万能感」を抱きます。
 
 赤ちゃんが産まれてしばらくの間、母親は育児だけを中心に生きるため、赤ちゃんのニードに適切に対応することができ、赤ちゃんもこの万能感を維持することが出来ます。しかし次第に、母親のこの適切な対応は次第に減っていくのが常であります。「ほど良い母親」であれば、育児に慣れてくると、少しずつ、赤ちゃんのニードにすぐに対応できないことや間違った対応をすることが出てきます。
 
 ですが、赤ちゃんは、こういった母親による不適切な対応やそれによるフラストレーションを経験することで、少しずつ、自己完結的な「万能感」を手放し、自分の外側に存在している世界というものに気づいていくのです。自分ではない母親という存在があること、自分自身も独立した存在であること、自分のニードは外部の母親によって満たされるが、それは完璧ではないこと…赤ちゃんがこういった「現実」に出会うためには、養育者が完璧にニードを満たす母親ではなく、時折失敗する「ほど良い母親」であることが大事なのです。
 

「ほど良い母親」であることを許す

 この過程は、赤ちゃんも母親も、それぞれの「現実」を受け入れる過程であると言うことができます。赤ちゃんは、ニードがいつでも適切に満たされるわけではないという「現実」を受け入れ、母親は自分が「完璧な母親」ではなく「ほど良い母親」にしかなれないことを受け入れるわけです。
 
 このとき、私たち養育者に必要なのは、「完璧な母親」ではなく「ほど良い母親」こそが赤ちゃんの成長に欠かせないのだという方向に価値観を転換させることなのでしょう。巷にあふれる育児情報をみていると、"あれもこれも出来なければならない"と焦りを感じてしまうこともあるかもしれません。しかし、そういう時こそ、このウィニコットの言葉を思い出し、理想通りできなくてもいい、時に間違える母親でいいのだと、「ほど良い母親」でいることを自分に許してあげてほしいと思います。

 

改訳 遊ぶことと現実

改訳 遊ぶことと現実

 

 

 

生きる苦悩に哀しみに満ちた諦めを

 私たちが自身のパーソナリティーや人生にまつわる苦悩や痛みを抱えている場合、いったいどうすれば楽になれるのでしょうか。
 
 苦悩や痛みが全てなくなれば、もしくはその原因となるものが一掃されれば、楽になれるかもしれません。しかし、そういったことが望めない場合や、そもそもそういった問題ではない場合、私たちはそれらの苦悩や痛みとどう向き合えばいいのでしょう。
 
 3冊の本から、そのヒントとなりそうな部分を引用したいと思います。
 
結局、苦しんでいる人の多くは、欲張りなんだよね。つまりそれは、諦めてないんですよ。諦めていないというのは、例えば、ちょっといいことがあると、それを続かせようとしたり、予測したりしますから。
藤山直樹『落語の国の精神分析

 

「根源的受動性」とは「絶対的価値」がまだ維持されている親子関係の内で、子どもが親の保護をまったく疑うことなく安全を味わえる時の体験です。

人間の欲望の根底にはこの根源的受動性へ回帰したいという願望があります。しかし私たちの成長とは、さまざまな挫折体験のなかで、「私を全面的に引き受けてくれる人はいない」ということに気づき、それを諦め許すという体験を積み重ねるプロセスなんですね。そして仕方なく自分で自分を引き受ける、つまり「残念ながら自立する」のです。
 
親が果たしてくれなかった完全な理解や守りを、恋人や友人に求めて何度も裏切られたり裏切ったりというなかで恨みを重ねます。すると、あっと気づくのです。「私はあなたではなく、あなたは私ではない。人はそれぞれの都合で生きている。私の求めていることを、他者に求めてもそれは無理なんだ」って。
品川博二、赤水誓子『死別から共存への心理学』
 
松木 結局、私は年をとるほど生きるのが楽になってきましたね。これは精神分析のおかげだと思っています。
細沢 どういう意味で楽になってきたの?
松木 その「不幸感」というものが、私の日常を支配しなくなったんですね。今でも、何も問題が起こっていない平穏なときに、「不幸感」がこころに感じられているのを感知するときがあります。しかし圧倒されたり不安になることなく、それと付き合えます。かつてはその「不幸感」をこれがあるから苦しいと排除することを思っていたんだけど、それがあるのが自分なんですね。別人にはなれないし、なる必要もないことがわかってきたんですね。
藤山直樹松木邦裕・細沢仁『精神分析を語る』

 

 語っている人は異なりますが、いずれも「諦めること」や「受け入れて付き合うこと」について語られています。
 
 苦悩や痛み、生き辛さが楽になるというと、それらがなくなることや、それらを克服した自分になることをイメージする方も多いかと思いますが、ここで語られるのは決してそのような理想的な「救い」ではありません。現状や自分自身について諦め、それらと共に生きていくという姿勢です。心理療法においても、抱えている問題がご自身のパーソナリティーや生き方といった根源的なものと深く関わるものであればあるほど、こういった心持ちとなることで少しずつ生きることが楽になっていくことが多いように思います。
 
 しかし、ここで大事なのが、2つ目の引用にある「残念ながら」という点です。ここには少しばかりの哀しみがあります。
 
 つまり、ここで語られる「諦めること」「受け入れて付き合うこと」は、決して、腹立ちまぎれに諦めるのでも、「もういいよ!」と拗ねた天邪鬼な心持ちで諦めるのでもありません。また、憎々しさに満ちた呪いを呟きながら受け入れるのでも、投げやりな気分のままに受け入れるのでもありません。ここに描かれているのは、諦めるしかないというどうしようもない現実を残念に思い、求めるものが手に入らないという事実を十分に哀しみ、そうしてから、静かに諦め、受け入れるという姿勢です。
 
 諦めなければならないということは、実際、とても残念で哀しいものです。言葉でいうのは簡単ですが、その哀しみは胸をかきむしるような苦痛や拒絶したくなるような絶望をもたらすため、向き合うにはかなりの覚悟が必要とされるでしょう。しかし、私たちはきちんと哀しむことを経て初めて、本当の意味で諦めることが出来るのだと思います。

 

落語の国の精神分析

落語の国の精神分析

 

 

死別から共存への心理学―スピリチュアル・ペインとケア・カウンセリング

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精神分析を語る

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psychoanalysis.hatenablog.com

  

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