受け入れることが重要な「人生の事実」

精神分析家Money-Kyrleの言葉

 下記の本を読んでいたら、『受け入れることが重要な「人生の事実」』という言葉と出会いました。これはイギリスの精神分析家Money-Kyrleの言葉だそうです。
 
心理療法における無意識的空想―セラピストの妊娠に焦点を当てて

心理療法における無意識的空想―セラピストの妊娠に焦点を当てて

 

 

 彼は哲学の博士号ももっており、精神分析の理論や概念を哲学や政治、倫理といった社会的問題と結びつける論文を多く書きました。特に、戦争の原因や背景について、精神分析的視点から読み解くことに強い関心をもっていたようです。また、アーネスト・ジョーンズ、フロイトメラニー・クラインといった精神分析の重鎮たちから精神分析を受けています。

 
 

『受け入れることが重要な「人生の事実」』

 彼が『受け入れることが重要な「人生の事実」』としたものは以下の3つで、彼はこれを精神分析の目的であると考えたようです(原著にあたっていないので間違っている部分があるかもしれません)。
 
1.乳房を最高によい対象として認識すること
2.両親の性行を最高に創造的なものとして認識すること
3.時間と最終的な死の必然性を認識すること
 
 1、2は文字通りの意味として捉えると面食らうかもしれませんが、ここで語られているのは、象徴的な意味での「乳房」「両親の性行」であると思います。
 
 「乳房」は、人が人生で一番最初に出会う対象であり、生きていくために必要なもの(母乳)を与えてくれる対象でもあります。また、「両親の性行」は自分の人生(歴史)の原点を意味すると同時に、その人生の原点が両親というカップルの親密性によって産み落とされるものであるという事実を意味します。
 
 つまり、1は、生きていくために必要なものを与えてくれるもの(乳房)を「よい対象」として認識することが大事であると述べており、2は、自分の人生(歴史)を産み出した両親の親密性がもつ創造性を認めることが大事であると言っているわけです。そして3は、文字通り、私たちは時間という制約と死という終着点を避けられないという事実について書かれています。
 
 

受け入れがたい事実と向き合う時に

この3つの事実は、受け入れることが重要であるのはもちろんだが、受け入れることが困難な事実でもある
 
 この3つを受け入れるということは、最高に良いものも、最高に創造的なものも、自分の内部ではなく外側にしかないということを受け入れることでもあります。
 
 この世界に受け身的に産み落とされ、乳房なしでは育つことができず、両親の親密な関係性には決して入れないまま、過ぎた時間は決して戻らないという事実と共に、いつか必ず訪れる死を待つことしか出来ない、無力な自分。そういうものを受け入れるということです。それはまさに困難な作業でしょう。
 
 私たち人間は、このような痛々しくも確かな人生の事実に対して、気が付くと、さまざまな防衛的空想を用いて抵抗しているものである。しかし、これらの事実は、人の生と死に向き合う時、明らかすぎるほどに明らかである。
 
 Money-Kyrleは、この3つを受け入れることが精神分析の目的であると考えたそうですが、むしろ、こういった「痛々しくも確かな人生の事実」が露わになり直面しなければならない時にこそ精神分析が必要とされる、とも言えるでしょう。それは、上にあるような、生や死に向き合う時かもしれませんし、何らかの人生の危機、心の危機かもしれません。自分がこれまでこの3つをどのように防衛してきたのか、そして、これからこの事実をどう受け入れていくのか…そういったことを考えていく場を精神分析は提供できるのだと思います。
 

詩人や臨床家に必要とされるネガティヴ・ケイパビリティ(負の能力)について

ネガティヴ・ケイパビリティとは

 「ネガティヴ・ケイパビリティ(負の能力)」という言葉があります。これは詩人キーツによる言葉で次のような意味です。
 
不確かさ、不思議さ、疑いの中にあって、早く事実や理由を掴もうとせず、そこに居続けられる能力
土井健郎「方法としての面接 臨床家のために」
 
 人は誰しも不確かな状況では不安になるものです。例えば、何か凄惨な事件があったとき、テレビではさまざまな識者が、犯行の動機や犯人の「心の闇」「知られざる顔」について推測します。その背景には、思いもよらない事件がどうして起こったのかが曖昧なままであることに耐えられない不安があるのでしょう。
 
 ネガティヴ・ケイパリティは、そういった宙ぶらりんの不安に流されて早急に結論めいたものに飛びつくのではなく、その不確かさの中に不安とともに居続ける能力であると言えます。
 

臨床家にとって必要なネガティヴ・ケイパビリティ

 キーツはこのネガティヴ・ケイパビリティを詩人に必要な能力としていますが、実は心の臨床家にとっても大切な能力であるとされています。
 
 ネガティヴ・ケイパビリティは臨床家にとっても欠かせないものであると最初に述べたのは精神分析家のビオンですが、 私がこの言葉を知ったのは、上記でも引用した、土居健郎の「方法としての面接 臨床家のために」という本でした。土居健郎は「甘えの構造」というベストセラーで有名な精神科医ですが、この「方法としての面接」という本は心理臨床に関わる人であれば知らない人はいないという古典中の古典です。
 
方法としての面接―臨床家のために

方法としての面接―臨床家のために

 

 

 「方法としての面接」では精神科臨床における面接をどのように行うかという心得が書かれていますが、その中の「第3章 「わかる」ということ」で、土居は、精神科面接でどのように人を理解すればいいかということについて次のように述べています。

 
では一体どうすればもっと深い意味で理解することになるのか。それにはまず第一に何でも彼でもわかったつもりになるのを止めることから始めねばなるまい。簡単にわかってしまってはいけないのである。いいかえれば何がわかり、何がわからないかの区別がわからねばならない。
 
精神科的面接の勘所は、どうやってこの「わからない」という感覚を獲得できるかということにかかっているが、このことはいくら強調しても強調しすぎることはあるまい。
 
 心の臨床では、クライエントについて理解することがまず大事なわけですが、ここで土居は「簡単に分かってしまわないこと」の大事さを説いています。
 
 私たちは、つい相手の話を自分の経験に引き寄せて聞いてしまいがちです。何か違和感や疑問がよぎったとしても、自分の経験の枠組みに相手を当てはめて「ああ、きっとこういうことなんだろうな」と勝手に推測して補ってしまうのです。それは「分からない」という宙ぶらりんの不安から解放してくれますが、その推測が誤っていたとき、クライエントの本当の姿は永遠に分からないままになってしまいます。つまり、クライエントを深く理解するには、「分からない」という曖昧さを抱えながら、クライエントの真の姿を見極めようと目を凝らし続ける姿勢が欠かせないのです。
 

すべての人にとって有用なネガティヴ・ケイパビリティ

 このネガティヴ・ケイパビリティは、詩人や臨床家にだけ必要なものではなく、人が生きていく中で、原因や解決策のない状態や、思うとおりにならない状態に陥ったときにも必要とされるものだと思います。
 
 例えば、人間関係はその最たるものでしょう。人の気持ちというのは究極的には分かりえません。いくら言葉で気持ちを表現してもらっても、「もしそれが嘘だったら…」と思い始めれば、いくらでも疑うことが出来ます。まさに「不確かさ、不思議さ、疑い」に満ちています。
 
 そういったとき、分かりやすい答えが欲しいあまり、何度も相手に問いただしたり、逆に「きっとこう思っているんだ」と自分の中で勝手に分かったこととすると、関係性が行き詰ってしまうことが多いでしょう。どう頑張っても「分からない」ものを、何とかして分かろうとすればするほど、苦痛や不安が増すばかりです。
 
 そうではなく、その不確かさに耐えて分からないままで居続けることが出来れば、相手の気持ちばかりが気になってしまう疑心暗鬼の中から抜け出すことができたり、相手との関係性に対する新たな視点がみつかったりするものだと思います。
 
 こうして考えてみると、ネガティヴ・ケイパビリティというものは、思うとおりにならないことや分からないことに対してどう頑張っても何もできない時がある、というのを受け入れる「万能感の諦め」でもあるのでしょう。諦めではあるけれど、その諦めにまず辿り着くことからスタートするしかない事態が世の中にはあるということです。ネガティヴ・ケイパビリティは、そういった事態で私たちがどう振舞えばいいかの指針として、詩人や臨床家だけではなく、すべての人にとって有用な言葉であると思います。
 

日本で絶滅寸前な精神分析というものについてー精神分析はなぜ性的な話ばかりするのか

精神分析はなぜ性的な話ばかりするのか?

 精神分析と言うと、何でも性的な話にしてしまうというイメージを抱いている方も少なくないのではないでしょうか。例えば、夢にステッキなど棒状のものが出てきたらそれはペニスであると解釈する、子どもの性欲や近親相姦について論じている、などなど。なぜ精神分析では性の話をクローズアップするのでしょうか。
 

フロイトの性理論

 たしかに、フロイトは、人には乳幼児期から性的欲動があり、その欲動は(まだセックスが出来ないため)身体の特定部分で発散されると考えていました。
 
  その部分とは、口、肛門、性器が代表的なものです*1。そして、それら身体の特定部分で欲動が満たされたり、もしくは満たされずにフラストレーションを感じたりといった体験を通して、人の心が作り上げられていくと考えました。
 
 例えば、口でその欲動が満たされる「口唇期」の場合、初め、赤ちゃんは生きるために乳房を吸いますが、そのうち、いわゆる「遊び飲み」のように、乳房を吸うこと自体の快を感じるようになります。そして、乳房を吸うと感覚的な満足(快)だけでなく安心感も得られること、不安なときに乳房を求めればお母さんが与えてくれることなどの体験をくりかえす中で、口で吸うという感覚的な快は、依存心や信頼感、甘えといった心にも発展していきます。一方、ここで躓きが起こると、過度に依存的となってしまったり、人や世界を信頼できなくなったりしてしまうというわけです。
 
 ここで大事なのは、精神分析において、心というものは具体的な身体的な感覚から始まり、そこをベースに発展していくものと考えられていたということです。乳幼児期から性的欲動があるという説はセンセーショナルではありますが、フロイトは私たちの心の形成というものの根源に、生理的、生物的な身体(感覚)があると考えて、このような仮説をたてたという点が大事だと思います。
 

性に含まれる人生の重要な要素

 また、性には人生における重要な要素が複数含まれていることも、精神分析が性的なものに着目する理由のひとつです。
 
 例えば、性には、男女関係、夫婦関係が関わってきます。わたしたちにとって性がどういうものであるかは、男女関係や夫婦関係のありようを規定します。性を恐ろしいものと捉えている人にとっては、男女関係というものは恐怖がつきまとうものとなるでしょう。また、性を支配-被支配の関係性と捉えている人は、男女や夫婦の関係性も支配する・される関係であると考えていることでしょう。
 
 そしてそれだけではなく、性は自らの出生の始まり―父と母が交わり自分が産まれたという個人史の原点―という要素も含まれています*2。また、そこから派生して親子という関係性も含まれています。
 
 このように、個人にとって性がどういうものであるのかは、その人の出生や歴史、親子関係、男女関係、夫婦関係がどういうものであるのかを表していると考えられます。精神分析において性という視点が大事なのは、性を通して、その人の自己像や対人関係のあり様を理解することが出来るからだと言えるでしょう。

 

性のもつ象徴的な意味

 精神分析が性的なものを考慮する他の理由としては、性にまつわる行動や身体部位がもつ象徴的な意味合いを大事にしているということがあげられます。
 
 たとえば、性行為そのものは、他者と交わり何かを産みだすという創造的行為の象徴となるでしょう。ファルス(*突起した男性器)は男性性や強さの象徴であり、乳房は人が生きていく上で必要とする「よいもの」を与えてくれる対象という意味をもち、子宮は安全に守られた空間を意味するかもしれません。
 
 逆に、人によってはこれらに対して悪い象徴的意味を抱く場合もあります。そうすると、性行為はお互いを貪りあう生産性のない倒錯的行為となり、ファルスが暴力や破壊の、乳房は「よいもの」を与えてくれない対象の象徴となるでしょう。
 
 精神分析では、個人が性にまつわる行為や身体部位にどのような象徴的意味合いを(無意識的に)抱いているのかという視点が、その人を理解する際のキーになることが少なくありません。そのためにも性的なものへの視点というものが必要になってくるというわけです。
 

実際の臨床場面

 精神分析は、ただただ性的なものをクローズアップしているのではなく、上記に述べたような個人の根源的な部分の理解に必要なものと考えているということがお分かり頂けたでしょうか。
 
 現代の精神分析実際の臨床場面では、患者さんの夢や発言に「それは乳房を意味していますね」などダイレクトに解釈することは少ないようですが*3、さまざまな要素や象徴的意味をもつ「性的なもの」を、個人がどう扱い、どう位置付けているのかをみることで、無意識レベルにある人間関係や自己像を理解していくという視点は、今も精神分析の主要な観点のひとつであると言えます。
 
 しかし、こういった性にまつわる精神分析の理論は、現代のフェミニズムジェンダーの観点から批判を受けているのも事実です。その点は、精神分析がこれからも理論を発展させ批判に応えていくことが求められている部分だと思います。
 
 
 今回の記事を書くにはなかなか時間がかかりました。精神分析の性にまつわる理論についてはまだ勉強が必要なところが多々あるようです。今回、以下の本を参考にさせて頂きました。

*1:年齢によってメインとなる部分は移り変わっていき、0~2歳が口唇期、2,3~7歳が肛門期、7~12歳が性器期と分けられています

*2:*もともと、精神分析自体が、自らの出生や歴史を問うことと密に関連しています。精神分析において重要な概念であるエディプス・コンプレックスは、父を殺害し母と結婚したオイディプス王の物語がもととなっていますが、この物語においてもオイディプス王の出生の謎をめぐって物語が展開します。彼が、「自分はどこからやってきたのか」を問い、その真実を探ろうとしたからこそ、父の殺害と母との性行という悲劇が明るみに出るのです。

*3:そういった解釈をする割合は流派によって異なる印象です

「あなたには分からない」という言葉の背後にある絶望と希望

 先日、「当事者マウンティング」という言葉について書きました。
 
 そこで出てきた「あなたには分からない」という言葉についてもう少し書いてみたいと思います。
 

「先生には分からない」

 「あなたには分からない」という言葉は、実は、心理療法ではよく耳にする言葉です。多くの患者さんが、自分の苦しみについて「他の人には分からない」「先生には分からない」と口にします。
 
 この言葉は確かに強いものです。先の記事にもあったように、これを言われた側としては、対話を封殺され、関わりを否定されたように感じられ、動揺してしまうことも多いかもしれません。
 
 しかし、この言葉の背後にはさまざまな感情があるように思います。恐らく、そこには「分かるはずがない」という強い絶望と、「でも本当はわかってほしい」というわずかな(でも切実な)希望の両方があるでしょう。また、もしかしたら、これまで、誰も自分の苦悩を理解してくれなかったという体験から、「簡単に分かってたまるか」という強い怒りや、「分かってなんてほしくない」といった拒絶も含まれているのかもしれません。
 

他者の言葉を理解するには

 他者の言葉を理解しようとするとき、その言葉が伝える表面的な内容だけを追っていては、その本当のところは理解できません。その言葉が出てきた背景にあるもの、その人の歴史、また、そこで体験されたであろう感情や思考といったものを想像して初めて、相手が伝えようとしているものに近づくことが出来るのだと思います。
 
 心理療法で「先生には分からない」と患者さんに言われたとき、臨床家が最初にすることは、その言葉が出てきた背後にある絶望に、怒りや拒絶に、切実な希望に思いをはせることです。そして、患者さんが今この時に、私たちにその言葉を言うということが何を意味しているのかを考えます。それはきっと一人一人、異なるでしょう。一人一人の歴史が異なるように。
 
 心理療法と違って、普段の会話では、一つ一つの発言の背後にあるものを丁寧に見ていくことは出来ません。それでも、何か動揺してしまうようなことを言われたとき、もしくは自分が言ってしまったとき、その背後にある感情を見つけて理解していくことは、相手や自分自身を深く知ることに繋がり、ひいては相手や自分との関係性をよくすることになっていくのだと思います。
 

「当事者マウンティング」をされた時に私たちにできることー背後にある心理を考えるー

「当事者マウンティング」と言う言葉

 「当事者マウンティング」に関するこちらの記事が一部で話題になっているようです。

 

あなたもきっと経験がある「当事者マウンティング」の暴力性と誘惑(磯野 真穂) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

 

 当事者マウンティングとはこの記事を書かれた方の造語であり、以下のように説明されています。

自分が持っていないものを理由に「わかっていない」と言われると黙るしかない。相手がわかって、自分がわからないことの根拠は、自分には持ちえないものの中にあるのだ。返す言葉は無くなってしまう。

 

当事者の言葉は重要である。経験していなければ、その場にいなければ知りえないことはたくさんある。世界は当事者の言葉が聞かれなかったゆえに起こった悲しい出来事であふれている。

 

しかし当事者が当事者であることを根拠に「わかる」を主張し、当事者でないことを理由に「わからない」を突き付けるとき、それはマウンティングになる。

 

ここではそれを「当事者マウンティング」と呼ぼう。

 記事では例として、「子どものあなたには分からない」「子育てをしたことのない人に、子どものことは分からない」などがあげられており、最後に、当事者マウンティングは相手の言葉を封じ込め、対話の扉を閉ざすリスクがあることが指摘されています。

 確かに、この例のようなセリフはよく聞きます。また、この言葉は相手を排除し拒絶するニュアンスがあるので、言われると何も言えなくなってしまうということもよくあるでしょう。そういった現象をあぶりだすものとして、「当事者マウンティング」というこの言葉は秀逸のように思います。

 

「当事者マウンティング」という言葉の危険性

 しかし、多くの人が指摘しているように、この「当事者マウンティング」という言葉には、弱者やマイノリティ、被差別者がやっとの思いであげた声を封殺するために使われかねない危険性があるように思います。

 例えば、こちらのコラムにはその危険性について詳しく書かれています。

 

www.hafutalk.com

 

 元の記事では、そういったリスクを避けるためか、「当事者マウンティング」の例は被差別的なニュアンスのない「ある物事の当事者」といった文脈となっていますが、一般的に「当事者」といってまず連想するのは、いわゆる弱者やマイノリティ層ではないでしょうか。そういった被差別者の声に対して、「当事者マウンティング」という言葉が軽々しく使われ、批判や揶揄の対象とされてしまわないかが懸念されます。

 

「当事者マウンティング」をする心理

 そもそも、「当事者でないあなたには分からない」という言葉はどういう時に発せられるのでしょうか。

 この言葉は、当事者が、無遠慮でぶしつけな無理解にさらされた時に出てくるもののように思います。

 1人の人間の体験に対する想像力も敬意もなく、「きっと~なのだろう」「~に違いない」と決めつけられたとき、それに傷つき、反発し、自分の心を守るため、当事者は「あなたには分からない」と言うのではないでしょうか。当事者は、当事者であることを根拠に「自分だけがわかっている」ことを主張したいのではなく、ただ、「あなたは軽々しく決めつけたけど、私にはあなたの想像もおよばないような痛みや苦しみの体験があるのだ」という悲痛な訴えをしているように思えます。

 記事の著者も、人から「研究者って楽そうでいいよね」と「上から目線」で言われた時に「当事者マウンティング」をしそうになったと、やはり最初に相手から「上から目線」で無理解を突き付けられたことを描写しています。

 記事には「当事者マウンティングの最大の問題は、対話の扉を閉ざし、知るチャンスを封じることにある」とありました。しかし、 最初に「対話の扉」を閉ざしたのは、もしかしたら、最初に無理解をつきつけた「当事者マウンティング」をされた側なのかもしれません。

 

「当事者マウンティング」をされた側の心理

 記事には「当事者でないあなたには分からない」と言われると、言われた側は「黙るしかない」と書かれていますが、そうなってしまうのは何故でしょう。

 確かにこれは強い拒絶の言葉であり、人をひるませる言葉です。しかし同時に真実でもあります。実際、当事者として経験しないと分からないことはあるわけで、「あなたには分からない」は至極当たり前のことでもあります。

 それでも、「あなたには分からない」と言われて、「はい、分からないです。でも分かりたいと思うのです。教えてください」と素直に言えず、黙ってしまうのはどうしてなのでしょう。

 マウンティングという言葉はそもそも「相手を貶め、自分が優位に立とうとすること」を意味します。

 「あなたには分からない」と言われて「マウンティングをされた」=貶められたと感じるということは、その背後に、「わかる」こと=優位である、「わからないこと」=劣っている、という価値観が前提としてあるのだと思われます。そして、自分は「わかっている(優位である)」はずなのに、「わかっていない」人として貶められたという怒りがあるのではないでしょうか。だからこそ、「あなたには分からない」という言葉を前に黙ってしまうのかもしれません。

 

「当事者マウンティング」をされた時にできること

 私たちが「当事者マウンティング」をされた時には、対話を封殺されたと思い黙るのではなく、それを発した相手の体験した痛みや苦しみを想像し、自身が最初に無理解をつきつけたのではないかと顧みることが必要ではないかと思います。また、「わかる」「わからない」という優劣から抜け出すことも大事でしょう。そうすることが出来て初めて、本当の対話の扉を再び叩くことが出来るのではないでしょうか。

 

psychoanalysis.hatenablog.com

 

「ありのままに世界を見すぎる」ゆえの苦悩(防衛機制が弱いということ)

 患者さんの話を聞いていると、時折、その苦悩の背景に「あまりにありのままの世界を見すぎている」ことがあるように思える時があります。

 

予測不可能な世界

 例えば、患者さんの中には、人からどう思われるか分からないことが不安で、人とうまく関われない人がいます。大災害にあうことや、重い病や重大な事故事件を恐れるあまり、行動が制限されてしまう人もいます。
 
 これらはどれも、予測することが不可能な事態に対する不安や恐怖が根本にあるといえます。
 
 実際、私たちは、他人が何を考えているかを本当のところは分からないし、自分がいつ大災害や病、事故事件に出会うかも分かりません。もしかしたら、信じている人に嫌われているのかもしれないし、明日にでも大災害や病、事故事件に遭遇するかもしれない…。厳密に考えれば、その可能性は決してゼロではありません。ありのままに世界をみれば、世界はとても不安定で不条理に満ちています。
 

防衛機制で心を守る

 しかし、私たちは、そういった可能性がゼロではないということを、あまり考えないようにして生きています。人と出会うたびに、「この人は何を考えているのか」と疑心暗鬼になっては、人と出会うことが苦痛になってしまいます。また、どこかに出かけるたびに事故事件に巻き込まれないか心配していては、おちおち出かけられません。
 
 なので、私たちは、そういった「厳密に考えればあり得ることだけれど、普段はそれを忘れておいた方がいいこと」については、どこかぼやかして、あまり見ないようにして生きているのです。
 
 この、見ないようにしていることを精神分析の理論では「防衛機制」と呼びます。防衛機制とは、人が苦痛や葛藤に出会った時、それらから心を守るために働くシステムです。
 
 防衛機制にはいろいろな種類があります。代表的なものをいくつかあげるとすれば、苦痛な体験や感情を無意識におしこめて意識にのぼらないようにする「抑圧」、本心とは正反対の言動をとる「反動形成」、何かに向けた感情や欲求を別のものに置き換える「置き換え」などがあります。
 

防衛機制が弱いゆえの苦悩

 この防衛機制はもともとは人の心を守るために必要なシステムです。しかし、これがあまりに強く働きすぎたり、逆に弱くて十分に働かないと、さまざまな苦痛が生じることになります。
 
 そして「ありのままに世界を見すぎる」ために苦悩している人というのは、後者のケース、つまり防衛機制が弱い方であると言えます。
 
 彼らは、他の人々が無意識に誤魔化して見ないようにしている、世界のリアルな姿、不条理で残酷で不安に満ちた姿を、あまりにもそのままに直視しているのでしょう。真実を見すぎている、あまりに真摯に生き過ぎている、と言うことが出来るかもしれません。彼らはよく、人から「考えすぎだ」「気の持ちようだ」などと一蹴されることがあるようですが、果たして、世界のリアルな姿を見ているのはどちらなのでしょう。
 

ありのままの世界を見つめる心に覆いを作ること

 しかし、やはり守りが薄いまま、この世界を生きていくのはとても苦しいことです。
 
 精神分析家である北山修は著書「覆いをとること・つくること―〈わたし〉の治療報告と「その後」」で、覆いをとっていわゆる深層心理を明るみに出すオーソドックスな精神分析心理療法ではなく、心の「覆いをつくる」心理療法の重要性について語っています。
 
本書で示す対象者の防衛はもろくて、心の中身が露呈しており、中身の開示の程度はいわゆるノーマルな「普通の人々」とは比べ物にならない。ここに登場するケースは、症例Fを除いて、「普通」ではなく、私が初めて会った頃は特に、その身を守る適応的な防衛というものが破綻した人たちだった。だからこそ、「覆いをとる」というより「覆いをつくる」治療が求められたのである。今から考えても、彼らは「普通の人」たちよりも、あるいは、私なんかよりも、嘘のつけないずっと正直な人たちであった。
 
 この著作に出てくるケースは内服治療が必要となるような方が多いですが、そういった治療を必要としない方においても、こういった心の覆いが必要となる場合があるように思います。自身の苦悩が、覆いが強すぎることによるのか、覆いが脆すぎることによるのか、という視点は、その対処を考えるうえでも大事になってくると思います。

 

 

「どうすればいいか分からない」時に私たちの心に生じていること

「分からない」は本当に「分からない」のか

 何かに悩んでいるとき、「どうすればいいか分からない」と堂々巡りに考えてしまうことがあるかと思います。例えば、恋人にふられてしまって「どうすればいいか分からない」、仕事がうまくいかず「どうすればいいか分からない」、試験に受かる気がしなくて「どうすればいいか分からない」…。寝ても覚めても「どうすればいいのか分からない」とグルグル考えてしまいます。
 
 しかし、そういった時、私たちは本当に「分からない」のでしょうか。

 

何かを避けるために「分からない」堂々巡りが生じる

 精神分析学会の機関紙である『精神分析研究』の51巻に、学会で行われた「治療抵抗」についてのシンポジウムでの講演が収録されており、次のようなことが書かれていました*1
 
心理療法に来ている患者が「分からない」と堂々巡りするとき、それは「何とかしないといけないもの」があるのではない。それは、患者の心の中に何らかの感情が沸いてきているが、それを感じることを避けようとしている時であることが多い。患者が自分の感情から目をそらし、内面をみるモードでなくなっているとき、「分からない」と堂々巡りになるのだろう。
 
 専門用語をはぶいて分かりやすく要約したので少し意訳になりますが、上記のような内容でした*2
 
 これは、治療中に生じる出来事について書かれたものですが、私たちが普段の生活の中で「どうすればいいか分からない」と堂々巡りしてしまうときのヒントにもなるかと思います。
 
 つまり、「どうすればいいか分からない」という堂々巡りは、何か目をそらしたい感情や現実を避けるためにグルグルと繰り返されているのかもしれない、ということです。
 

本当は私たちはどうすればいいかは「分かって」いる

 感情や現実のそのままを十全に体験することは、実は意外と難しかったりします。特に、拒否したい感情や現実であればなおさらです。そして、その際に、言葉というものが巧妙に使われます。言葉を巡らせることで、さも考えているように見せながら、実は本当の意味では考えておらず、ただただ心が気持ちや体験に対して回避的になっているということがよく起こります。
 
 恋人にふられて「どうすればいいか分からない」とき、心は、喪失の悲しみと絶望や恋人の心離れという現実があまりに辛いため、それらを体験したくない!と悲鳴をあげているのかもしれません。
 仕事がうまくいかず「どうすればいいか分からない」とき、自己愛の傷つきや恥ずかしさ、理想とは異なる現実が苦しくて、そこを見ないように必死なのかもしれません。
 
 本当は、どうすればいいのか、何を諦めなければいけないのか、分かってはいるのでしょう。そしてそれは大抵の場合、苦しくて情けなく、地味で平凡な選択肢です。でも、それを分かりたくなくて、私たちは「分からない」と繰り返しているのかもしれません。穴の中に入らないと落としたものを拾えないと無意識では知りながら、穴の周りをグルグルとまわりながら「分からない」と繰り返す…そんな事態に陥っているように思えます。
 
 そのとき、私たちが本当にすべきことは、その穴の中に入っていくことなのでしょう。暗い穴に入り、味わいたくない感情や見たくない現実に向き合い、それをしっかりと体験する。それを通してしか、次の行動には移れないのかもしれません。また、その作業があまりに辛い時、人は心理療法を求めるのではないかと思います。
 

*1:精神科医である道岡義敬先生による「抵抗概念をどう生かすか」という論考です

*2:長い論考のごく一部をまとめたものです。また、ここでは、治療における抵抗がテーマであるため、治療者に対するネガティヴな感情に焦点が当てられていました。