生きる苦悩に哀しみに満ちた諦めを

 私たちが自身のパーソナリティーや人生にまつわる苦悩や痛みを抱えている場合、いったいどうすれば楽になれるのでしょうか。
 
 苦悩や痛みが全てなくなれば、もしくはその原因となるものが一掃されれば、楽になれるかもしれません。しかし、そういったことが望めない場合や、そもそもそういった問題ではない場合、私たちはそれらの苦悩や痛みとどう向き合えばいいのでしょう。
 
 3冊の本から、そのヒントとなりそうな部分を引用したいと思います。
 
結局、苦しんでいる人の多くは、欲張りなんだよね。つまりそれは、諦めてないんですよ。諦めていないというのは、例えば、ちょっといいことがあると、それを続かせようとしたり、予測したりしますから。
藤山直樹『落語の国の精神分析

 

「根源的受動性」とは「絶対的価値」がまだ維持されている親子関係の内で、子どもが親の保護をまったく疑うことなく安全を味わえる時の体験です。

人間の欲望の根底にはこの根源的受動性へ回帰したいという願望があります。しかし私たちの成長とは、さまざまな挫折体験のなかで、「私を全面的に引き受けてくれる人はいない」ということに気づき、それを諦め許すという体験を積み重ねるプロセスなんですね。そして仕方なく自分で自分を引き受ける、つまり「残念ながら自立する」のです。
 
親が果たしてくれなかった完全な理解や守りを、恋人や友人に求めて何度も裏切られたり裏切ったりというなかで恨みを重ねます。すると、あっと気づくのです。「私はあなたではなく、あなたは私ではない。人はそれぞれの都合で生きている。私の求めていることを、他者に求めてもそれは無理なんだ」って。
品川博二、赤水誓子『死別から共存への心理学』
 
松木 結局、私は年をとるほど生きるのが楽になってきましたね。これは精神分析のおかげだと思っています。
細沢 どういう意味で楽になってきたの?
松木 その「不幸感」というものが、私の日常を支配しなくなったんですね。今でも、何も問題が起こっていない平穏なときに、「不幸感」がこころに感じられているのを感知するときがあります。しかし圧倒されたり不安になることなく、それと付き合えます。かつてはその「不幸感」をこれがあるから苦しいと排除することを思っていたんだけど、それがあるのが自分なんですね。別人にはなれないし、なる必要もないことがわかってきたんですね。
藤山直樹松木邦裕・細沢仁『精神分析を語る』

 

 語っている人は異なりますが、いずれも「諦めること」や「受け入れて付き合うこと」について語られています。
 
 苦悩や痛み、生き辛さが楽になるというと、それらがなくなることや、それらを克服した自分になることをイメージする方も多いかと思いますが、ここで語られるのは決してそのような理想的な「救い」ではありません。現状や自分自身について諦め、それらと共に生きていくという姿勢です。心理療法においても、抱えている問題がご自身のパーソナリティーや生き方といった根源的なものと深く関わるものであればあるほど、こういった心持ちとなることで少しずつ生きることが楽になっていくことが多いように思います。
 
 しかし、ここで大事なのが、2つ目の引用にある「残念ながら」という点です。ここには少しばかりの哀しみがあります。
 
 つまり、ここで語られる「諦めること」「受け入れて付き合うこと」は、決して、腹立ちまぎれに諦めるのでも、「もういいよ!」と拗ねた天邪鬼な心持ちで諦めるのでもありません。また、憎々しさに満ちた呪いを呟きながら受け入れるのでも、投げやりな気分のままに受け入れるのでもありません。ここに描かれているのは、諦めるしかないというどうしようもない現実を残念に思い、求めるものが手に入らないという事実を十分に哀しみ、そうしてから、静かに諦め、受け入れるという姿勢です。
 
 諦めなければならないということは、実際、とても残念で哀しいものです。言葉でいうのは簡単ですが、その哀しみは胸をかきむしるような苦痛や拒絶したくなるような絶望をもたらすため、向き合うにはかなりの覚悟が必要とされるでしょう。しかし、私たちはきちんと哀しむことを経て初めて、本当の意味で諦めることが出来るのだと思います。

 

落語の国の精神分析

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死別から共存への心理学―スピリチュアル・ペインとケア・カウンセリング

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精神分析を語る

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