体験的に「知る」ことで私たちは変わっていく

 心理療法を受けている患者さんが、自分の抱えている生き辛さから少し抜け出たとき、つまりちょっとしたターニングポイントを抜け出たとき、「なんで今までこんなことに気づかなかったのだろう」と言うことが度々あります。
 
 この「こんなこと」というのは例えば、「親の期待通りでなく、自由に生きていいんだ」ということであったり、「人に合わせて無理をしないで自分優先にしてよかったのか」もしくは「弱みを見せて人に頼ってもいいのか」ということだったりします。
 
 こういったことは、たぶん誰でもどこかで見聞きしたことがある言葉でしょう。実際、「なんで今まで気づかなかったのだろう」と言う患者さんたちも、別にその「フレーズ」だけなら何度も聞いたことがあった、何度も見たことがあった、と言います。例えば自己啓発の本の中、新聞の人生相談のコラムの中、もしくは誰かに相談したときのアドバイスの中で。確かにその「フレーズ」を見聞きしていたと言います。
 
 でも、皆さん口を揃えて言うのは、それを実感してはいなかった、ということです。つまり、その「フレーズ」と自分の体験が繋がっていなかった、ということでしょう。もしくは、その「フレーズ」が指し示す内容を、頭では理解していても、体験として実感していなかった、とも言えるかもしれません。皆さん、こんな何度も見聞きしていたようなことに「なぜ気づかなかったのだろう」と驚かれ、そして以前よりも自由で新しい生き方に少しずつ踏み出していきます。その「フレーズ」の内容を実際に生きていくこととなります。
 
 こういう現象に出会うと、一体「何かを知る」ということはどういうことなのだろうとつくづく考えます。わたしたちが「何かを知る」というのはどういうことなのでしょう。わたしたちは、何をもって、そのことを「知った」ということが出来るのでしょう。
 
 患者さんたちが上記のようなターニングポイントを迎える以前は、その言葉を「聞いたことがある」状態ではあっても、「知って」はいなかったと言うことが出来るでしょう。何かを「知る」ということは、その言葉やそれが指し示す内容を理解するということだけではなく、自分自身が一変するということ、自分自身が組み替えられるという体験を含むことなのだと思います。そしてそれは非常に強い力を持ち、わたしたちは1回「知った」ら、もうそれ以前の自分には戻れないほどのものなのでしょう。
 
 「知る」ことについては精神分析においてさまざまに論じられており、「知る」という体験や「知りたい」という情動がどのように生まれるのかなどについての魅力的な理論があるのですが、それはまたの機会に。